睡眠という名の嗜好品 :騒音と剥奪された権利をめぐる考察

静寂は、いつから選ばれた者だけの「特権」になったのか。深夜、容赦なく振るわれる音の暴力。発狂しそうな夜を耐え忍びながら、それでも我々は翌朝、何事もなかったかのように身なりを整え、社会へと戻っていく。
だが、騒音によって奪われた睡眠は、もはや美容の範疇をこえ、生存の権利さえも脅かしている。どこへ相談しても解決しない理不尽の深淵。いま、我々が死守すべき「人としての尊厳」について問い直したい。
1 睡眠という名の嗜好品
安眠は、いまや特権階級の嗜好品となったのではないか。この四半世紀、「美と健康のために眠れ」「パフォーマンスを上げるために眠れ」という台詞を、何千回と聞かされてきた。しかし、社会がそれを許さない。
数万円の枕、身体を包みこむ高級マットレス、最新のスリープテック。市場には「眠り」をうたう商品があふれ、我々は静寂を「買う」ことができるのだと錯覚させられる。
だが、現実は残酷である。壁一枚をへだてた他者がはなつ、配慮のない足音や、深夜にひびく喋り声——。それら「音の暴力」の前では、高価な寝具など、ただの布切れに成りさがる。
管理会社や公的な窓口に救いをもとめても、その壁はあまりに高く、解決は困難をきわめる。社会という名の「高速の光」が、既存のルールを置き去りにしたまま深い闇をうみ、我々はその暗黒に取り残されてしまったようにさえ思える。
本記事では、睡眠が美容と健康にもたらす不可避な影響と、現代社会で増殖しつづける「騒音問題」の深淵について考察したい。
2 焼け石に水となる美容液
結論を言おう。どれほど高価な美容液を重ねようとも、騒音によって睡眠を損なえば、それは焼け石に水でしかない。
睡眠が肌や髪、そして心身の健康に多大な影響を及ぼしていることは、もはや、周知の事実だろう。現に、それを示す研究やデータは数多くある。
2023年、日本化粧品技術者会誌に掲載された論文『主観的睡眠状態と肌状態との関連』(※1)によれば、日常的な「すこしの睡眠不良」が、肌老化のスピードを上げる可能性があるという。
- 肌老化が加速
睡眠不良は角層状態を変化させ、皮膚の加齢を加速させることが示された - 少しの睡眠不良でも悪影響
日常経験しうる少しの睡眠不良が、皮膚性状の悪化を引き起こしている可能性がある - 「寝つきの良さ」が重要
皮膚代謝の観点では、睡眠時間以上に、入眠時間の寄与が大きいと考えられる
つまり、どれほど高価な美容液をぬろうとも、日常的に寝つきが悪ければ、その効果を十分に享受することはむずかしい。スキンケアという自己投資は、壁の向こうから放たれる「音」に虚しく呑みこまれていくのだ。
(※1)主観的睡眠状態と肌状態との関連
命を削る「睡眠負債」
美容を損なうことは、健康を損なうことと表裏一体である。厚生労働省が策定した「健康づくりのための睡眠ガイド 2023」(※2)によれば、睡眠不足をふくめた様々な睡眠の問題が慢性化すると、下記の発症リスクが高まることが明らかとなっている。
- 肥満
- 高血圧
- 2型糖尿病
- 心疾患
- 脳血管障害
- 精神障害
さらには、死亡率の上昇に関与することも報告されており、日常的に質(睡眠休養感)・量(睡眠時間)ともに十分な睡眠を確保することが、極めて重要だとしている。
つまり、他者が放つ騒音によって、我々は単に「眠り」を奪われているのではない。自らの意思に反して、健康寿命、そして生命そのものを、不当に削り取られているのである。
3 血と涙の上に築かれる経済トレンド
日本の睡眠不足がもたらす経済損失は、年間最大1,380億ドル。現在の円安水準(1ドル160円)で換算すれば、約22兆円という天文学的な数字にのぼる。
米国のランド研究所が2016年に発表したこの衝撃的なレポート(※3)は、睡眠不足がもたらす集中力の欠如やパフォーマンスの低下を、国家レベルの危機として描きだした。
この莫大な損失を食い止めるべく、市場には「眠り」をうたう商品があふれている。高機能パジャマ、高機能飲料、サプリメント、入浴剤、スリープテック。
財務省の広報誌『ファイナンス』(※4)では、これら睡眠ビジネスの活況を「経済トレンド」として取り扱っている。
仕事、育児、介護、そして騒音問題――。そもそも睡眠不足の原因はさまざまあり、個人の努力で解決できるものばかりではない。眠りたくても眠れない人が、この国には溢れかえっているのだ。
我々が流す血や涙の上に成り立つもの。それが、経済トレンドなのだろうか。
(※3)Why Sleep Matters — The Economic Costs of Insufficient Sleep
(※4)財務省広報誌「ファイナンス」現代社会の睡眠について考える
4 沁みわたる音の暴力
騒音は、高血圧、脳卒中、心不全といった心血管疾患のリスクを高める――。2018年、衝撃のレビュー論文が米国心臓病学会誌(※5)に掲載された。
この研究は、おもに交通騒音を対象としたものだが、とくに夜間の騒音がストレスホルモンと血管酸化ストレスのレベルを上昇させることを裏付けている。
なかでも、本人が音を不快と感じているかどうかに関わらず、身体は反応してダメージを受けているという点が重要である。
コロナ禍以降、在宅時間の増加やテレワークの普及により、騒音問題が激増し、慢性化しているといわれている。
不動産会社、株式会社AlbaLinkの調査(※6)によると、集合住宅に住んでいる人のうち、8割近くが騒音に悩んだ経験があるという。
つまり、静寂を守ることは、単なる快適さの追求ではない。自分自身、そして大切な家族を守るための、死守すべき「防衛線」なのだ。
(※5)JACC「Environmental Noise and the Cardiovascular System」
(※6)株式会社AlbaLink【アパート・マンションの騒音トラブル】男女500人アンケート調査
5 剥奪された睡眠
築年数が浅く、高性能な住宅ほど騒音トラブルがある。そう指摘する専門家もいる。「遮音性の高い住宅なら快適に暮らせるだろう」といった期待値が高く、かえって騒音に不寛容になるのだという。
一度騒音トラブルになれば、解決が非常にむずかしい。管理会社、警察、弁護士、市役所等に相談しても、一筋縄ではいかないケースが多い。
さらには、騒音トラブルについて声を上げれば、「気にしすぎ」「あなたが引っ越せば解決する」といった心無い言葉を吐き捨てられることもある。
なぜ、音の暴力を受けている側が、引っ越し費用という多額の損失まで被り、逃げ出さなくてはならないのだろうか。
かつて睡眠は、人がもつ当然の権利だったはずだ。しかし今や、自ら戦い、「勝ち取る」べきものになったように思えてならない。
睡眠は、いかなる美容液よりも深く、細胞を癒やす。しかし、その土台となる「静寂」は、個人の努力や投資だけでは守れない。我々は今、そんな社会を生きているのだ。
この理不尽な構造に目を背けず、これからも「美しく健やかに生きる権利」について問い直していきたい。

